ミニにタコ

純文学作家志望者がつらつらと雑記を書き連ねます

存在の耐えられない軽さ

今週のお題「会いたい人」

 

コロナのおかげで誰とも会わない日々が続く。

会話は仕事以外ではほぼしないので、愚痴る相手もおらずストレスが溜まる。

 

今会いたい人、と問われるとすぐに思い浮かびそうで浮かばない。

強いて言うなら実家に帰って、父親と母親とペットの猫と会いたいかな。

元気にしてるかな。

 

久々に「家に帰る」という言葉を口にして、思い出したことがある。

 

ジョジョの奇妙な冒険」という漫画の第7部のテーマが「家に帰る」というものなのだが、これには非常に感銘を受けた。

 

これはもちろん物理的に家に帰るというだけでなく、最期の最期に安寧を得られるような精神的な安らぎを得る、と言うことだ(と、僕は漫画を読んで解釈した)。

 

まだ死ぬには早いと思っているが、いつか自分にも最期のときが訪れると思うと、

そのときは無事「家に帰る」ことができるだろうか。

そんなことは考えずに今はただ生きることに夢中になればいいのかもしれないが……。

 

最近は、コロナや小さいとは言え地震が頻発しているので少し死に対して神経質になりすぎているのかもしれない。

自分が死ぬのはずっと先だとなんとなく思っていたが、もしかしたら「その時」はあっけなく来るのかもしれない。

 

話は変わるが、実は最近ギターを買った。10万円もする初心者の自分には過ぎたギターかもしれない。練習もしているが、まだまだたどたどしい手つきでうまく弾けない。しかし少しずつではあるが上手くなってきている気がする。もしかしたらその内一曲弾けるようになるかもしれない。そうなったらすごく楽しいだろうな。

 

なんだか、生きることと似ているような気がするな。

 

少年とナイフ

今から20年以上前、まだ僕が中学生のころ。

クラスに立野(仮名)というやつがいた。

 

そいつはみんなに嫌われていた。いわゆる不良少年というやつで、

授業中に爆竹を鳴らしたり、コンビニで万引きをしたり、だれかれ構わずケンカを吹っ掛けたりと、とにかく人の嫌がることをするのが大好きな奴だった。もちろん僕も立野が大嫌いで、学校に来ないことを毎日祈っていた。

 

ある日のこと。立野がいつものように昼過ぎに登校してきた。

遅刻してきたにもかかわらず、立野は一言も発さず悠然と自分の席に座った。

 

始めのころは教師もそういった行為を注意していたのだが、そのたびに立野が狂犬のように荒れ狂い授業にならなくなるので、いつの頃からか誰も注意しなくなった。教師も半分諦めているようだった。

 

立野も遅刻はしたもののとりあえず大人しく座ってはいたので、そのまま何事もなく授業は進んでいくのかと思われた。だが、事件は起こってしまった。板書をしていた教師が字を書き間違えたのだ。

 字の書き間違いなんて誰にでもある、取るに足らない些細な失敗だが立野はそれを見てバカにしたように笑った。

 

「なんでそんな簡単な漢字を間違えてんの?そんな字、俺でもわかるよ。バッカじゃねーの?」

 

教師は胸ぐらを掴みかねないぐらいの勢いで立野に迫っていき激高した。

そして立野の普段の行いの悪さを滔々とまくし立てた。だが立野は一向に意に介さない。何を言われても知らん顔だ。

自分の子供ぐらいの年齢の生徒に舐められて悔しかったのか、教師は言ってはいけないことを言ってしまった。

 

「売春婦の子供のくせに」

 

その瞬間からはスローモーションのように見えた。立野は懐からナイフを取り出し、教師を刺した。教師の腹からほとばしる血と女生徒の大きな悲鳴。

 

あまりの衝撃でその後のことはあまり覚えていない。たしか教室は大騒ぎになり、刺された教師は救急車で運ばれていき、立野は駆け付けてきた別のクラスの教師と警察に連れていかれた。

僕はその間何をすることもできず、その光景をただ呆然と眺めているだけだった。ただ、身体から噴き出してくる汗が気持ち悪かった。

 

その日以降立野の話をするのはタブーとなった。

 

誰にも気を許さず一人荒れ狂っていた立野。大人相手だろうが一歩も引かなかった立野。だが、「売春婦の子供のくせに」と言われた時だけおもちゃをとりあげられた子供のような表情になった。陳腐な話だが、立野が事あるごとに反抗していたのは彼なりの自己表現だったのかもしれない。

 

あれから20年以上が経った。事件後、立野はすぐに転校していき、消息不明となったため、彼が今何をしているのかは知らない。

ただ、今でも時々なぜかあの時の表情を思い出してしまう。

 

今週のお題「カメラロールから1枚」

f:id:kenichi_nakahara:20200505232557j:plain

 

愛はどこからやってくるのでしょう

突然ですがみなさんはハゲていますか?

ドキッとした方も多いでしょう。特に中年男性は悩んでいる方も多いのでは?

 

なぜこんなことを唐突に言い出したかと言うと、

一年ほど前に中学の時のメンバーでプチ同窓会をしたことを思い出したからです。

同窓会自体が久々だったので、楽しみにしていたのですが、

友人の一人が見事に禿げ散らかしておりました。

それだけならまだ良かった(?)のですが、彼から話を聞いてみると、

結婚してから数年で離婚してしまい、子どもの養育費に追われ、仕事は派遣というありさまでした。(それを悲観的に愚痴るのではなく、明るく振舞っていたのが唯一の救いですが)

 

中学の時はふさふさで、イケメンとまではいかないまでも、それなりにおしゃれなほうだったのに……。人生の悲哀を感じますね。

 

「ハゲ」というのは男性において劣化の象徴であり、

どんなイケメンであっても「ハゲ」というレッテルを張られると

途端に物笑いのタネになってしまいます。

 

考えてみてください。流行りのドラマに出ている俳優さんがハゲだったらどうでしょう?「花より男子」の松潤が、「恋は続くよどこまでも」の佐藤健がハゲだったら?

どんな胸キュンのストーリーであっても、どんなロマンチックなセリフがあっても、滑稽にしか見えません。想像に難くないですよね。ハゲとはそこまでの破壊力があるのです。

 

この歳になって初めてわかりました。

大事なものは失ってから気付く。

いつだってそばにいたお前(髪)を失って、それがどんなに大切なものだったか。

失ったものは二度と取り返せない。後悔してももう遅いんだって。

時の流れは残酷です。

 

そういうお前はどうだって?

僕も頭頂部がハゲていましたが、徹底した食事療法で完全ではないものの、回復に近づいております。本当に良かったです。(もし今ハゲ散らかしていたら、こんな胸をエグるようなブログは書けない)

 

ハゲはどこからやってくるのでしょう。

みなさんも自分の胸に問いかけてみてくださいね。

 

f:id:kenichi_nakahara:20200505125924j:plain

今週のお題「カメラロールから1枚」

涙がこぼれたら

f:id:kenichi_nakahara:20200502204811j:plain


突然ですが皆さんはどんな青春時代を過ごしてきましたか?

僕はもう中年のいいおっさんなのですが、人生も折り返し地点まで来ると昔のことを思い出すことが多く、メランコリックな気持ちになります。

 

僕の青春時代は、まさに自分の人生の”黄金時代”でした。

今でいうところのリア充というやつです。それはもう鮮明に覚えております。

嫌というほどに。

 

今から20年ほど前、高校一年で友達もおらず部活もやっていなかった僕は

授業が終わると一目散に家に帰り、部屋に閉じこもってCDばかり聴いておりました。

 

高校生と言えば多感な時期。

周囲はみな流行りのJ-POPを聴いておりましたが、暗かった僕は恋や友情をさわやかに歌う音楽がどうしても受け入れられず、古いロックばかり聴いていました。

 

その時特にハマっていたのはレッド・ツェッペリンでした。

(主に70年代に活躍した世界的なロックバンドです)

僕もはみだし者を気取っているわりにはミーハーなところがあり、

好きな曲は「天国への階段」でした。(ツェッペリンで一番有名な代表曲)

 

当時の僕はアルバムを借りてきても、自分の好きな曲だけを

繰り返し聴く癖があり、他の曲は1~2回聴くだけで飛ばし、

大好きな「天国への階段」だけを繰り返し聴いておりました。

 

好きな曲を繰り返し聴くこと自体は誰にでもあるのかもしれませんが、

僕の場合それは常軌を逸しておりました。

薄暗い部屋で三角座りをしながら「天国への階段」だけを狂ったかのように

エンドレスでリピート。それは毎日毎日数時間に及びました。

 

授業が終わって大体昼の3時ごろに帰ってきて、7時ぐらいまで「天国~」を聴き、

晩ご飯を30分ぐらいで食べ終え、また夜の12時ぐらいまでエンドレスリピート。

たまに浮気してそれがキング・クリムゾン(70年代に流行ったイギリスのプログレッシブ・ロック)になることもありましたが、大体はツェッペリンでした。

 

あまりにも僕が繰り返し繰り返し同じ音楽だけを聴くので、

親が本気で心配して家族会議が開かれたこともありました。

 

父親が訝しげに僕に問う。

「なぜそんなに同じ曲だけを聴くのだ?それにその曲は何だ?なぜ外国の曲?」

(親は海外のロックなど全く知らない)

「いや、この曲が好きだから。この曲を聴いていると心が洗われる気がするから」

「お父さんにはよくわからないのだが、その曲はなんか物悲しくて暗くないか?もっと別の音楽を聴いてみたらどうだ?」

「お母さんもそう思うわ。最近はV6とか流行っているじゃない。ああいった音楽を聴けば気持ちも明るくなるんじゃない?」

※当時は「学校へ行こう」などが放映され、V6の全盛期だった。

「はあ」

「無理にとは言わないが、たまにはそういった音楽を聴けばお前の視野も広がるんじゃないか?友達との会話も弾むだろうし」

「そうよ。絶対そのほうがいいわ」

「はあ」

「あまりピンと来てないみたいだな。まあいい。今日はもう寝なさい」

約一時間ほど続いた家族会議は、成果のないまま終わった。

ただ、その二日後、僕が朝起きてみると枕元に「WAになっておどろう」のCDが置かれてあったことは今でも忘れられない。

 

別にV6が嫌いなわけではないのだが、当時の僕は友人たちと「WAになっておどる」などという行為はブラウン管の向こう側の世界であり、自分とはかけ離れたものに思えた。

結局そのCDは数回聴いたものの、また元のツェッペリンを聴くだけの毎日に戻った。

親も初めこそ僕に説教してきたものの途中であきらめたようだ。最終的には何も言わなくなった。

 

多感な15才という時期をツェッペリンだけに捧げた僕の青春は、

ある意味"黄金時代"と思わないですか?

ねえ、そうだと言っておくれよ。

本当は冒頭のゆかいなポーズを決める猫のように、僕だってなりたかったさ。

そんなことを思い返していると、僕の瞳から一筋の涙が。

「想い出はいつもキレイだけどそれだけじゃおなかがすくわ」

それでは今日はこの辺で。

 

今週のお題「カメラロールから1枚」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

愛を込めて花束を

人生の最終目標はなんだろうか。35歳にして改めて自分に問うてみた。

最終目標、というとやはりすんなり思い浮かばないが、当面の自分の目標は純文学を書いて入賞することだ。

 

これは以前のブログでも書いたが、自分の鬱屈した人生を文学に昇華させたいという思いがあったからだ。そうすれば今までの空虚な人生にも意味があったと思えるからだ。

(もちろん嫌なことだけでなく楽しい思い出もあったけどね)

 

しかし自分で言っておきながら思い悩んでいるのだが、「入賞」する必要はあるのだろうか。自分が納得するような文学が書ければ他人の評価がどうであれ、それで自分の人生に意味付けができる気もする。だが、やはり「入賞したい」という思いも強い。

 

それはなぜだろうか?

 

答えは簡単、「社会的に認められたい」からだ。

人間は社会的な動物なので、ご多分にもれず自分にもそういう承認欲求がある。

 

今自分の中には二人の自分がいる。

「社会のはみだし者というフレーズに酔っているイタい自分」と

「社会的に成功を収め、金と栄光を手に入れようとしている自分」だ。

 

どっちも本当の自分だと思うのだが、この二人はいずれ合体して一人の自分にならなければならない。説明するとこうだ。

「今は社会的に受け入れられないどうしようもない自分だが、小説という分野で天才的な才能を発揮し、世間にちやほやされ、金と栄光、ついでに言えば女も手に入れる」というストーリーだ。

 

世間というものは、成功者に対して苦労を求める。金と栄光を手に入れて普通の人から見ればうらやましく思える人生も、裏では(過去に、と言い換えてもいい)こんなに苦労しているんだよ、だからこそ成功しているんだよ、というものだ。

 

自分が今夢想しているのは、小説で成功した自分にインタビュアーが色々質問を投げかけているところだ。

「この小説の着想はどこから来たのですか?」

「自分が世間から疎まれている時期に、〇〇〇という経験があってうんたらかんたら」

「え!こんな天才的な文章を書く中原さんにそんな経験があったなんて!でも、そういった経験があるからこんな素晴らしい小説ができたんですね!」

「大したことないですよ」

といった具合だ。

 

我ながら浅はかな妄想だと思う。

しかし成功すれば暗い過去も、明るい未来のための「肥やし」に変えることができるのではないか、と思っている。

この辛く苦しい時期は明るい未来を築くための礎なのだ、と。

そうすれば、暗い過去も報われるってもんだ。

人生なんてそういうものかな、って思ってる。

 

こんな変なことを思いついたのが自分の激レア体験かな。

すいません、無理やりこじつけました。

 

今週のお題「激レア体験」

 

 

 

 

名前のない怪物

今週のお題「激レア体験」 

 

 世の中の親というものはなぜ物に名前を書きたがるのだろう。

 

 僕は今35歳なのだが、小学生のとき、親がしきりに「物に名前を書け」と言ってきたことを思い出した。「物」というのは、具体的には、スーパーファミコンのソフトであったり、自転車であったり、マンガ本であったり。

 

 親の執拗なまでに物に名前を記載させようとするその主たる意図としては、

「名前を書いておかないと、いざという時自分の所有物だということを証明できない」というものだった。

 

「いざという時」というのは、例えばこんな場合だ。

 

 自転車をコンビニに置き忘れてしまった。それに気づき、あとから自転車を取りに帰行ったとする。だが、もし店員が自転車を忘れ物として預かっていた場合、名前を書いてなければ自分の所有物ということを証明することができない。

そういった事態を想定し、あらかじめ名前を記載していくように、ということだった。

 

 まことにもって正論であり、当時小学生だった僕は、親が今まで築き上げてきた経験値と知識の深さに感嘆したものだった。

 

 だが、正論が必ずしも人の心に届くとは限らない。

 

 子供ながらに親の言うことが正しいと感じつつも、当時の僕は物に名前を書くことをどこか気恥ずかしく思っていた。

 もっとはっきり言えばダサいと感じていた。

 名前を書くと、どんなにかっこいい物でも途端に図書館臭(図書館の本って、スタンプ印とか押してますよね?)がしてかっこ悪くなるのだ。

 公的なものがダサい、という感覚が強かった僕は名前など書きたくなかった。

 

 さらに言うと、名前を書くことによりゲームやマンガは中古書店等で売れなくなってしまうという著しいデメリットも生じる。

 過去に祖母といっしょにゲームを売りに行った際、名前が記載されているということを理由に店員に冷たくあしらわれたことがあった。その屈辱はいまだもって忘れてはいない。

 

 上記の理由により、僕は物に名前を書くことを拒否していた。

 大人しく真面目だった僕にとって、唯一の反抗だった。

 ちなみにこの反抗は高校生になっても続いた。

 

 高校からは遠方にあるということを理由に自転車通学を許可されたため、自転車にて通学していた。当然のことながら僕は自転車に名前は書かずにいた。

 だが、不幸の種というのは自分の知らないところで育まれているものだ。のちに事件は起こった。

 

 ある晴れた日のこと。教師が抜き打ちで自転車置き場に来て、一つ一つ自転車に名前が書いてあるかをチェックし始めたのだ。

 これはまずい。しかし、自分にはどうすることもできない。抜き打ちチェックを中止させるような権限もなければ、反抗する勇気もない。ただ呆然と教師がチェックする様を見て、突っ立って見ているだけだった。

 

 そうこうするうちに自分の自転車のチェックの番がやってきて、教師は僕にこう告げた。

「中原くん、きみの自転車には名前が書いていないようだけど?」

 疑問形で僕を問い詰めてくる。

「あ、すいません。書くの忘れてました」

「そう。じゃあこのシールに名前を書いて自転車に貼ってね」

 普段から真面目だった僕は……と言うよりは、全く目立たない生徒だったため、反抗するようなタイプに見えなかったのだろう。教師もすんなり僕の言うことを信じたようだった。教師は懐から名前シールを取り出し、僕に名前を記載するように促した。

 

 しかし、僕は絶句した。そのシールには名前の記載欄はおろか、あまつさえ住所・電話番号まで記載する欄があったのだ。名前だけでもかっこ悪いのに、住所や電話番号などの個人情報を露呈するようなシールを自転車に貼るなんて自殺行為だと思った。

「何してんの、早く書いて」

 教師は不思議そうに僕を見つめながらそう言う。

「あ、わかりました。あとで書いときます」

「え、今書けばいいでしょ」

「今ちょっと腹が痛いんで……。トイレ行ったあとで書きます」

 教師は合点がいかない顔をしていたが、それ以上の問答には発展しなかった。

 教師は去っていき、自転車と僕だけが残った。

 

 僕はこの難局を乗り切った自分を褒め称えたい気持ちになった。また、同時にその教師の愚かさを嘲笑った。

 

 人を信じるからこういうことになるのだ。僕は名前シールなど貼りはしない。こういったダサさの象徴となる物を多感な時期にある高校生が貼るはずもないのだ。

 あの教師はそれを見抜けなかった。歳をとると感性も鈍る。おそらく自分の高校生のときの気持ちなど忘れているのだろう。そういった若者に寄り添う気持ちがなかったから、僕にあっさりと騙されることとなったのだ。彼は、愚かだ。

 僕はそう思い、自身の完全勝利に酔いしれた。

 

 なんか取り止めがないブログになりましたが、「教師を見事出し抜き、小さな反抗を示した」ことが僕にとっての激レア体験です。みなさんは物に名前を書きますか?

 

それでは、また。

 

THE BREAKERS

今週のお題「激レア体験」

 

皆さんは「THE BREAKERS」というロックバンドを知っていますか?

「うぃっしゅ!」で有名なDAIGOさんのバンドではありません。

結成は今から40年以上前の古いバンドで、メジャーでもインディーズでもCDは一枚も出しておりません。

ここまで言うと、「そんな無名バンド知るわけないだろ!」という皆さんの声が聞こえてきそうです。

でも、こう言うと興味を引いてくださるかもしれません。

The Blue Hearts」「The High-lows」「ザ・クロマニヨンズ」という、日本のロックを常に牽引してきたバンドのギタリスト・真島昌利さんがかつて在籍していたバンドです。

 

上記のバンドの大ファンの僕は、いつものように何気なく動画サイトから音楽を流しておりました。(著作権うんぬんはここでは触れないでいてくれたら助かります……。僕自身は聴く専でアップしたことはありません。だから良いというわけではないのですが)

真島さんは色んな方に楽曲を提供しています。

有名なところで言うとマッチの愛称で有名なジャニースの近藤真彦さんにも「アンダルシアに憧れて」を提供しております。(40代以上の方はご存じの方も多いと思います)

 

「アンダルシアに憧れて」は真島さん自身もソロで歌っていたりしていたので、

久々に聴きたくなったので動画サイトで聴こうと思ったところ、関連動画に「THE BREAKERS」の文字が出てきました。

前々からブルーハーツの前身である「THE BREAKERS」という名前を聞いたことはあったのですが、今までその楽曲を聴いたことはありませんでした。当然です。冒頭でも言いましたが、CDは出していないのですから。

興味を引かれた私は動画をクリックしました。曲名は「涙のCool Dancing」。

本来であればメジャーデビューシングル曲だったそうです。(デビュー寸前まで行きながら、ポシャってしまったようです)

 

若かえりし頃の真島さんが、がなるように歌いながら流れてくるその曲は圧巻でした。リズミカルで、衝動的で、攻撃的で、しかしどこか生きることの痛みを感じさせるような刺々しいロックでした。自分が高校生のときブルーハーツから受けた衝撃と同じでした。

 

自分は今35歳です。実を言うと社会に出てからはロックからは少し距離を置いていました。社会に揉まれ、生活や現実に首を絞められる生活が続くと、ブルーハーツに限らず少年向けと思われるロックの青臭い歌詞が昔より響かなくなったのです。

ただ、昨日動画サイトから流れてきた「涙のCool Dancing」は違いました。この歳になっても年甲斐もなくわくわくし、まるでロックに夢中だったあの頃に戻ったよう気になりました。その日は興奮で寝付けず、何度も繰り返しブレイカーズの曲を聴きました。こんなことは高校のとき以来でした。

 

35歳という年齢はもう夢を見るような年齢ではありません。

35年も自分と付き合っていると、自分の能力もある程度わかります。

自分は子供のころ夢見たようなスターにはなれないんだな、という諦めが出てきます。

野球選手であったり、タレントであったり、それこそロックスターであったり。

そういった煌びやかな職を夢見ることを諦め、生活のために好きでもない、地味な仕事を黙々とする。それが大人になるということだと思っておりました。(それはそれでとても大変で、また、尊いことでもあるのですが)

 

しかし、ブレイカーズの曲を聴いていると、「何でもできる」と思い込んでいた高校生のときの自分が甦ったかのようでした。

この感情をどうか懐古主義だと思わないでください。自分が感じたのは「昔はよかった」という感情ではありません。

年齢など関係なく、明日に向かい突き進んでいくエネルギーです。

楽曲自体は古くても、自分がブレイカーズの曲を初めて聞いたのは昨日です。

「涙のCool Dancing」は、自分にとっては最新の曲なのです。

 

今週のお題からは外れた記事になってきましたが、

たまたま開いた動画サイトで自分の方向性を変えてしまったということが自分にとっては激レア体験です。

 

自分が人生で成し遂げたいこと、それ即ち「純文学を書く」という目的をブレイカーズが思い出させてくれたように思います。

今後、自分自身を鼓舞して正直に生きたいです。

 

今後、人生が辛くなったときはどうするって?

大丈夫。僕にはブレイカーズがあるのですから。

楽しいときも、悲しいときも、ブレイカーズを聴けば大丈夫でしょう。

きっと、大丈夫なはずです