ミニにタコ

純文学作家志望者がつらつらと雑記を書き連ねます

ぼくのままでどこまで届くだろう

今日はTBSの「消えた天才 松坂大輔越えの天才投手」を観た。

かつて横浜高校にいた天才投手の話だった。

丹波慎也さんという人は野球の名門・横浜高校で1年の時からエースで、試合でも活躍していたそうだ。

 

そんな才能豊かな人だったが、練習後、家に帰ったあと一晩眠りについたら朝には動かなくなっていた。心不全だったそうだ。

 

17才の少年が突如、心不全になって帰らぬ人となるとは練習との因果関係を疑わずにはいられないが、ここではそれに言及するのはやめておく。

 

そんな才能ある丹波さんが亡くなり、チームは悲しみに暮れる。監督はチームメイトの精神状態も考慮し、予選を辞退しようとも考える。しかし、丹波さんの母は、「亡くなった慎也のためにも予選に出場してほしい」と強く懇願し、予選に出場、見事優勝し、甲子園に行くことになる。

これ自体すごいのだが、個人的には丹波慎也さんの兄の話のほうが印象に残った。

 

慎也さんには丹波幹雄さんという兄がいて、幹雄さんも野球をやっていた。同じく横浜高校に入学して、1年の時からベンチ入りし、将来有望な選手だったそうだ。

ただ、肘を壊してしまい、1年の秋(2年の春?どっちかは忘れた)には野球部を退部した。

 

幹雄さんは「その後野球をやる気はなくなった」と言い、テレビで野球を観たりすることもなくなったそうだ。

ケガの具合がどの程度だったかわからないが、おそらくケガだけでなく、相当嫌な思いをしてきたのだろう。1年でベンチ入りしたぐらいだから、先輩たちから嫌がらせされたりとかあったのかな、と邪推したりも。

恐らく生きがいと言ってもいい野球から離れたその後の幹雄さんは無気力な毎日を送ることになる。

 

そんなある日、慎也さんが幹夫さんに「キャッチボールをしよう」と言い出した。キャッチボールをしながら慎也さんは幹雄さんに

「まだまだやれるよ。野球もう一回やればいいのに」と言う。

何気ない言葉だったが、この言葉がその後の幹雄さんの運命を変えることとなる。慎也さんが亡くなる2週間前のことだった。

 

慎也さんが亡くなったあと、丹波家は暗い雰囲気に包まれることとなる。丹波さんの父親は幹雄さんの前で「幹雄は途中で野球を辞めるし、慎也は亡くなるし、俺の人生はなんだったんだ」と吐露する。

絶対言っちゃいけない言葉とは思うが、それだけ苦しかったんだろう。

暗鬱な状態になってしまった丹波家だが、幹雄さんは「慎也は夢を目指すこともできなくなってしまったが、俺の身体は動くじゃないか」と思い、そこでプロを目指し一念発起する。ブランクが4年あったにもかかわらずだ。

 

結果として、そこから血の滲む思いで猛練習し、わずか2年でヤクルトからドラフトをかけられプロ入りすることとなる。

 

非常にすごいことと思う。

 

ただ、番組では触れられてなかったが、プロの世界はやはり厳しいらしく、1軍にあがることは叶わず4年で戦力外通告を受けてしまう。

現在はバスの運転手さんをやっているという。(テレビではバスの運転手をやっているということだけを伝えていた)

 

バスの運転手という職業を否定しているわけでは決してないのだが、テレビを通してみる幹雄さんは何となく精気が感じられなかった。

ぼくの勝手な推測だが、やはりプロで活躍したかったという思いが強かったのではないだろうか。

 

番組では感動風に仕立てられており、実際ぼくも感動はした。

ただその裏で「プロになる・好きなことを仕事にする」ということの厳しさを改めて感じた。(僕はただのサラリーマンだが)

 

華やかな表舞台に上がれるのはごくわずかな人間だけ。その裏で何人もの人間が散っていくのだろう。残酷な現実があるとしても、今日の番組に感動したのは、きっと人生を懸けた人間の軌跡が美しいからに違いない。

 

ああ、ぼくのままでどこまで届くだろう。