ミニにタコ

純文学作家志望者がつらつらと雑記を書き連ねます

たった一つの冴えたやり方

日本全体が幼児化している。そんな話を聞いたことがある。

 

なるほど、言われてみればいい歳した大人がマンガやゲームに夢中になっていたり、

遊園地のアトラクションを本気で楽しんでいたりする。

また、結婚もせず、実家に寄生し続け、学習机とゲームとジャンプコミックスに囲まれ、いつまでも親といっしょに住んでいたりもする。

そういった人たちのことを「子どもおじさん(おばさん)」と言うらしい。

 

こう書くと、

「マンガやゲームを子どもの文化と言うのか!昔ならいざ知らず、今はそんな時代じゃない!これらは世界に誇る文化だ!」

「遊園地のアトラクションだって大人が楽しめるものもたくさんあるんだ!」

「今は結婚しなくても幸せになれる時代!独身ならお金は全部自分のために使えて快適だ!価値観が昔に比べて多様化しているんだ!」

という声が聞こえてきそうだ。

 

なるほど、確かにそういった反論も一理ある。

いや、一理どころか二理も三理もあるかもしれない。

 

しかし、どうにも僕の価値観で言うと違和感がある。

 

マンガ・ゲームも今では子どもだけのものでなく、大人向け(エロい意味ではない)の商品もたくさん出ており、むしろ子どもには難しすぎるぐらい高度な作品もあるのは知っている。

遊園地のアトラクションも年齢関係なく楽しめるものもある。

結婚も、究極個人の自由だろう。

 

だが、マンガ・ゲーム・遊園地のターゲット層は、当初は、あくまでも「子ども」だったはず。

子ども向けの娯楽であったはずなのだ。

 

今でこそ大人も楽しむことが普通になっているが、

それは上記の娯楽が「大人も楽しめるものに変化していった」というよりかは、

「大人になっても子供向け娯楽を卒業できない人たちのために内容を大人向けに変化させた」ものであるような気がする。

大人になってもゆりかごに揺られたままマンガを読み続けるような……。

 

結婚に関しても個人の自由と言ってしまえばそれまでだが、子どもが生まれなければ人口も減少していく。労働力は減っていき、来るべき高齢化社会を支える若者がいなくなる。

経済的理由で結婚できない人たちがいるのも知っているが、「個人の自由」だけで済まされない現実もある。

個人の自由を主張するだけでなく、「公」に貢献してこそ初めて大人と言える気がする。

 

価値観の多様化とは便利な言葉である。

働かなくても、結婚しなくても、大人がマンガやゲームに夢中になっていても、

それは「価値観の多様化」の一言で片づけられてしまう。

「誰にも迷惑をかけていないのだから、いいじゃないか」という文言とともに。

 

大人がいない日本は、これからどうなっていくのだろうか。非常に不安である。

 

と思ったけど、かく言う俺は金なし、職なし、女なしの三拍子そろったロクデナシでした!

まだ実家に住んでます!部屋にコロコロコミックがあります!遊園地大好きです!

PS4youtube観てます!

 

社会に貢献してから上記のようなたわごとを吐くようにします!

サーセンっした!

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今週のお題「大人になったなと感じるとき」