名前のない怪物
今週のお題「激レア体験」
世の中の親というものはなぜ物に名前を書きたがるのだろう。
僕は今35歳なのだが、小学生のとき、親がしきりに「物に名前を書け」と言ってきたことを思い出した。「物」というのは、具体的には、スーパーファミコンのソフトであったり、自転車であったり、マンガ本であったり。
親の執拗なまでに物に名前を記載させようとするその主たる意図としては、
「名前を書いておかないと、いざという時自分の所有物だということを証明できない」というものだった。
「いざという時」というのは、例えばこんな場合だ。
自転車をコンビニに置き忘れてしまった。それに気づき、あとから自転車を取りに帰行ったとする。だが、もし店員が自転車を忘れ物として預かっていた場合、名前を書いてなければ自分の所有物ということを証明することができない。
そういった事態を想定し、あらかじめ名前を記載していくように、ということだった。
まことにもって正論であり、当時小学生だった僕は、親が今まで築き上げてきた経験値と知識の深さに感嘆したものだった。
だが、正論が必ずしも人の心に届くとは限らない。
子供ながらに親の言うことが正しいと感じつつも、当時の僕は物に名前を書くことをどこか気恥ずかしく思っていた。
もっとはっきり言えばダサいと感じていた。
名前を書くと、どんなにかっこいい物でも途端に図書館臭(図書館の本って、スタンプ印とか押してますよね?)がしてかっこ悪くなるのだ。
公的なものがダサい、という感覚が強かった僕は名前など書きたくなかった。
さらに言うと、名前を書くことによりゲームやマンガは中古書店等で売れなくなってしまうという著しいデメリットも生じる。
過去に祖母といっしょにゲームを売りに行った際、名前が記載されているということを理由に店員に冷たくあしらわれたことがあった。その屈辱はいまだもって忘れてはいない。
上記の理由により、僕は物に名前を書くことを拒否していた。
大人しく真面目だった僕にとって、唯一の反抗だった。
ちなみにこの反抗は高校生になっても続いた。
高校からは遠方にあるということを理由に自転車通学を許可されたため、自転車にて通学していた。当然のことながら僕は自転車に名前は書かずにいた。
だが、不幸の種というのは自分の知らないところで育まれているものだ。のちに事件は起こった。
ある晴れた日のこと。教師が抜き打ちで自転車置き場に来て、一つ一つ自転車に名前が書いてあるかをチェックし始めたのだ。
これはまずい。しかし、自分にはどうすることもできない。抜き打ちチェックを中止させるような権限もなければ、反抗する勇気もない。ただ呆然と教師がチェックする様を見て、突っ立って見ているだけだった。
そうこうするうちに自分の自転車のチェックの番がやってきて、教師は僕にこう告げた。
「中原くん、きみの自転車には名前が書いていないようだけど?」
疑問形で僕を問い詰めてくる。
「あ、すいません。書くの忘れてました」
「そう。じゃあこのシールに名前を書いて自転車に貼ってね」
普段から真面目だった僕は……と言うよりは、全く目立たない生徒だったため、反抗するようなタイプに見えなかったのだろう。教師もすんなり僕の言うことを信じたようだった。教師は懐から名前シールを取り出し、僕に名前を記載するように促した。
しかし、僕は絶句した。そのシールには名前の記載欄はおろか、あまつさえ住所・電話番号まで記載する欄があったのだ。名前だけでもかっこ悪いのに、住所や電話番号などの個人情報を露呈するようなシールを自転車に貼るなんて自殺行為だと思った。
「何してんの、早く書いて」
教師は不思議そうに僕を見つめながらそう言う。
「あ、わかりました。あとで書いときます」
「え、今書けばいいでしょ」
「今ちょっと腹が痛いんで……。トイレ行ったあとで書きます」
教師は合点がいかない顔をしていたが、それ以上の問答には発展しなかった。
教師は去っていき、自転車と僕だけが残った。
僕はこの難局を乗り切った自分を褒め称えたい気持ちになった。また、同時にその教師の愚かさを嘲笑った。
人を信じるからこういうことになるのだ。僕は名前シールなど貼りはしない。こういったダサさの象徴となる物を多感な時期にある高校生が貼るはずもないのだ。
あの教師はそれを見抜けなかった。歳をとると感性も鈍る。おそらく自分の高校生のときの気持ちなど忘れているのだろう。そういった若者に寄り添う気持ちがなかったから、僕にあっさりと騙されることとなったのだ。彼は、愚かだ。
僕はそう思い、自身の完全勝利に酔いしれた。
なんか取り止めがないブログになりましたが、「教師を見事出し抜き、小さな反抗を示した」ことが僕にとっての激レア体験です。みなさんは物に名前を書きますか?
それでは、また。