ミニにタコ

純文学作家志望者がつらつらと雑記を書き連ねます

青春はいま・・・燃え尽きた

日本からハングリーという言葉が消えて久しい。

 

貧しかった日本も70年代には高度経済成長でどんどん豊かになっていき、

80年代にはほぼ近代化を終えたと言っていいだろう。

 

食料は豊富に生産され、お金さえあれば食べるものに困ることはない。

今、食べ物がなくて困ったという経験をした若者はほぼいないだろう。

 

また、現代のサラリーマンの出世意欲は薄く、それよりかは

早く家に帰って趣味に打ち込んだり、家族との時間を大切にしたいという。

 

戦後間もないころは映画もラジオも読み物も、暗くて悲しい物語が流行していた。

時代が時代だけあって、暗くて悲しくても最後に困難を乗り越える話が大衆に受けたようだ。

貧しい時代だったが、がむしゃらに生きることで生を色濃く感じられた時代だったようだ。

 

しかし時代も変わり、僕が生まれて物心ついた90年代には、

暗くて悲しい物語はほとんど受けず、明るく楽しい物語が人気を博した。

 

今でも、努力して困難を乗り越えるという物語はあるが、

数はそれほど多くなく、また戦後間もないころのような生死に関わったり、

廃人になるか否かまでの悲哀を感じさせるほどの作品はほとんどない。

あったとしても、戦後のころのような泥臭くストイックなものではなく、

清潔で綺麗な物語である。

 

それは至極当たり前のことであった。

時代背景が違うのだから、大衆に受けるものも変化していく。

それを批判するつもりは一切ない。

 

しかし、現代の世論をみていると何か違和感がある。

 

自分は「あしたのジョー」の大ファンである。

30歳以上なら知らない人はいないだろう。

最終回で宿敵ホセ・メンドーサとの対決を終えた矢吹丈

満足げに微笑みながら「真っ白な灰」になった拳闘漫画である。

 

後年、作者であるちばてつや先生はこう語っていた。

「真っ白な灰になるまで頑張れば、新しい明日がやってくるということを若い人たちに伝えたかった。真っ白になるまで頑張れば、例え負けたとしても、自分の中で何かが残る。新しく何かを始めるときにそれはきっと活きてくる」と。

 

趣味に打ち込むのもいいだろう。

家族との時間を楽しむのもいいだろう。

それはそれでかけがえのない時間だろう。

 

しかし、昨今の世の中の流れを見ていると、

どうも「真っ白な灰」になる生き方とは逆のように思える。

つまらない時代だ。

 

……と思っていたが、よく考えたら時代のせいではなかった。

僕自身が真っ白な灰になるような生き方ができていないだけなのだ。

自分が怠惰でそういう生き方ができていないばかりに、勝手に時代のせいにしていただけなのだ。

 

自分は丈のようにストイックには生きられないかもしれない。

しかし、少しでも自分が憧れたものの生き方に近づきたい。

それが、あしたのジョーのファンってものだろう。

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こういった考え方ができるようになったということは、

少しだけ大人になったということかもしれない。

今週のお題「大人になったなと感じるとき」